最初に気づいたのは、修羅王だった。
「風が哭いている。」
顔を上げ、北東を見やる。
近くにいた迦楼羅王も、同じ方角に視線を向けたが、何も感じられない。
「あのね、あたしにも分かるように話してくれない?」
唐突な物言いは、修羅王の癖だ。
癖だと分かっていても、意味が分かるというものでもない。
「あいつの気配が近い。そろそろ、俺に気付くだろう。
足手まといはいらないから、兵を連れて帰れ。」
修羅王の勘は鋭い。
特に、光流の感知では、調和神なみとも言える。
「敵襲があるというの? だいたい、あんた一人でどうするっていうのよ。」
「俺一人くらい、なんとでもなる。そんなことより……」
少年の顔色が変わった。
「結界を張れ!」
叫びながら、手近にいた四人の兵を自らの結界で包み込む。
迦楼羅王も、反射的に結界を張った。
凍えるような疾風が走り抜ける。
そして、強烈な光流の波動。
心の奥底を暴こうとする忌むべき感触。
目を背けてきた闇が、白日の下に引きずり出される。
精神が侵される。
何者かによって。
「チッ、仕方ない。」
結界を張ったままでは身動きが取れない。
修羅王は狂気に犯されつつある者たちを気絶させて放り出した。
「何よこれ!」
傍らの迦楼羅王の叫びに答えてやる。
「これがアスラの攻撃だ。」
忘れもしない、この波動。
「俺たちは、これにやられたんだ。」
修羅王を除く全員が、歪められた『黒の光流』に取り込まれたのだ。
八部衆の夜叉王でさえ。
「だから、あんなにも兵を帰せと言ってたのね。」
今さら分かっても遅い。
この場にいない連中は発狂しているかもしれない。
結界を張っていてさえ、正気を保つのがやっとなのだ。
これでは、戦闘どころではない。
「迦楼羅王は他の兵を抑えてくれ。生きてさえいれば、調和神の力で浄化は可能だ。
八部衆を名乗るのだから、一般神将五十人を行動不能にするくらい一人でやれるな。」
前は救えなかった。
死なせて、魂の平穏を与えてやることしか。
少年の瞳に、輝きが宿る。
戦いの予感に、心が震えるのだ。
本来の姿を取り戻せと。
「修羅王はどうするのよ。」
「あいつが来た。迎えてやらないとな。」
「結界は? 結界を維持しながら戦うなんてのは、無茶もいいとこよ。」
迦楼羅王の助力を断る。
「本当に知らないんだな。俺に結界はいらない。耐性があるからな。
代々の修羅王は、アスラの血を引いている。正常な『黒の光流』なら扱えるさ。
だから、迦楼羅王は自身の義務を果たせ。デーヴァ神軍、八部衆としての役目を忘れるな。」
本来、アスラであった修羅王には、デーヴァを守り戦う義務はない。
夜叉王の相手は自分だけで良い。
彼の前に立つ権利は、自分にだけある。
誰にも、譲らない。
闇色の神甲冑に身を固めた影がひっそりと立っている。
背を覆う銀髪が、吹き荒れる風に煽られていた。
「来たな、夜叉王。」
相手は、無言で佇んでいる。
鮮血の如き紅の瞳に光は無く……
「もう、俺も分からないか。」
漆黒の髪が風に翻る。
見つめ返す眼差しはひどく透明で哀しい。
「似ている……」
零れ落ちた、小さな呟き。
「また、幻か。」
夜叉王は剣を抜きざまに斬りつけてきた。
修羅王の小柄な身体が後方に跳ぶ。
「随分な挨拶だな。この俺に向かって、幻かはねぇだろ。」
身軽に着地した少年を見て、眩しそうに目を細める。
「その姿……身のこなしは、修羅王のもの。だが、修羅王は死んだ。この手で殺した。」
斬った感触が、まだこの手に残っている。
流れ出る血。
命の源が失われてゆく。
夜叉王の脳裏に、あのときの光景が鮮明に蘇る。
「俺は生きている。お前が生きているのに、俺が死ぬはずないだろ。俺とお前の力は対等。
約束を忘れたのか。」
修羅王の言葉も届かない。
過去に囚われすぎて。
「この腕の中で、いくら呼んでも目を開けなかった。」
力をなくした身体。
失いたくなくて、懸命に抱き締めていたことしか覚えていない。
温もりを無くしてゆく身体に熱を分け与えようと。
次に気付いたとき、修羅王は失われていた。
腕の中から。
天空界において、死んだ者の遺体は残らない。
すべて、天空界をめぐる光流に還ってゆくのだ。
「少しは俺の言うこと信用しろよ。」
いったん、間合いをおく。
言葉では通じない。
戦うことでしか、信じさせることができない。
夜叉王は構えた剣の刃に指を添え、真言タントラを唱える。
黒い神甲冑を纏う全身から立ち昇る、異質な光流。
蒼く寒々しい光。
今のデーヴァが知らぬ、調和の光流とは異なる力。
「『黒の光流』か。」
修羅王の口から、禁忌とされたその名が零れ落ちた。
「確かに、同じ実力なら『白』より『黒』の方が戦いには向いている。」
白の光流が調和の力ならば、黒の光流は破壊の力。
すべての存在は、存在するが故にいつの日か滅ぶ運命にある。
だから、白と黒の両方の光流を持ち合わせているのだ。
片方だけということは、絶対に有り得ない。
神々ですら、例外ではないのだから。
「誰だか知らんが、その姿でこの夜叉王の前に立ったこと、後悔させてくれる。」
「お前こそ、後悔なんかするなよ。」
言って、修羅王は両手の内に光球を生み出した。
小さくとも、強大な力を秘めた黄金の輝き。
デーヴァの『白の光流』にしては眩しすぎるほどの。
一瞬、夜叉王が怯む。
覚えのある力の波動に。
これは、唯一人しか持ちえぬもの。
「『幻力』マーヤー?」
幻力は創造の力。
創造神と、創造の力を持った古の神族だけが行使できた力。
調和神にも、破壊神にも、扱うことはできない。
その創造神は、覚めることのない深い眠りに就いている。
古神族の生き残りであるアスラは、黒の光流の誘惑に負けてしまっていた。
夜叉王の知る限り、これを使えるのは、修羅王のみ。
「行くぜ!」
少年は、正面から光流弾を投げつけた。
夜叉王は、それを剣で地面に叩きつける。
消しきれない衝撃に、両腕に痺れが走った。
もうもうと立ち昇る土煙。
視界を塞がれ、夜叉王は少年を見失う。
(前!)
直感に従い、前方を横に薙ぎ払う。
短い金属音。
剣が三鈷杵を防いでいた。
無意識に、後方へと跳ぶ。
少年の蹴りが、空を切った。
続く拳を受け流す。
夜叉王の後方で、破壊の音が上がった。
見なくても分かる。
もし、これが修羅王の攻撃なら、素手でも岩を砕く破壊力がある。
大地を削るぐらい、軽いものだ。
それよりも……
間近にある黒曜石の瞳。
透明な眼差し。
心の奥底まで見透かされそうな鋭さ。
(見抜かれた……かもしれない。)
夜叉王の内に巣喰う、言いようのない恐怖を。
修羅王を失った、あの瞬間の絶望を。
「……の馬鹿が。」
夜叉王の懐で、少年の光流が爆発した。
「夜叉王が生きてるってのに、修羅王がおまえ一人置いて死ぬわけないだろうが!!」
少年の攻撃より、叫びが心に突き刺さる。
これが、夢でも幻でもない証があれば……
夜叉王は少年の左腕を掴むと、力を込めて引き寄せた。
「!」
声こそ出さなかったが、少年の表情の変化は見逃さなかった。
(もしかしたら……)
心が逸る。
そして、少年の服を引き裂くかの勢いで左肩を露にした。
「修羅……王?」
肩口から胸にかけての、まだ生々しい刀傷。
指先に伝わる鼓動。
この温もりが、命の証。
「そうだ。やっと、目ぇ覚めたか。」
「本当に、シュラトなんだな。」
抱き締めようとして、頭に一発喰らってしまう。
「しつこいぞ、ガイ。この俺に、何度同じこと言わせる気だ。」
この素っ気なさは、やはり修羅王だ。
夜叉王は、妙なところで確信してしまった。
「生きていたんだ……」
死なせてしまったとばかり思い込んでいたのに。
服を整えて、少年も話す。
「お前こそな。黒の光流に飲み込まれて、生きていないかもと心配してたんだぞ。
探しに行きたくても、スーリヤに封印されちまって動けなかったし。
そんな昔話より、行こうぜ。」
「行くって、どこへ?」
このままデーヴァには帰れない。
あれほどの命を無為に奪ってしまったのだ。
今さら、どんな顔をして帰れるというのか。
「別に、どこでもいいけどさ。とにかく、ビシュヌには顔見せとかねぇとまずいだろう。
けじめもあるし。」
まぁ、確かに。
仮にも、彼らは八部衆。
どんなに規格外な彼らでも、このまま逃げるわけにはいかないだろう。
追手がかかるかもしれない。
あの雷帝が、黙って二人を見逃すとは思えないから。
「それに、この戦いをさっさと終わらせて、天空界一周修行三昧ってのも悪かないな。
お前と二人ならいいんだよ、俺は。生きるにしても、死ぬにしても。」
お前だけだ。
修羅王の表情はそう言っていた。
「お前になら殺されてもいい。だから、お前も俺以外に許すんじゃねぇぞ。」
物騒なことを口にしても、修羅王の笑顔は太陽のように明るく無邪気だ。
気が付くと、夜叉王の闇は吹っ切れていた。
<END>
<<Back |
|
|
|
|
>Post Script
>以前本で出した話です。
>これは、シュラトからガイへ"対等"を訴えるバージョン。
>
>初出: 夢・世界 第64回配本『Fifty/Fifty』(1999.3.28)
<お手数ですが、メニューに戻るときはウィンドウを閉じて下さい>