消えない傷 切れない絆
同じ夢を見る。
繰り返し、
繰り返し、
終わることなく。
空を舞う銀糸。
見開かれた紅い双眸。
凍てついた銀光から、赫々あかあかと滴り落ちる命の雫。
自分のものではない声なき悲鳴。
魂を砕かれたかのように、悲痛な心の叫び。
目の前で狂気に堕ちてゆくその人を止めたかったのに。
腕どころか、指一本動かせない。
唯一人と決めた相手の腕の中、遠のいてゆく意識。
身体はこんなにも近くに在りながら、心には触れることができないだなんて。
斬られた傷とは違う痛みで、胸が張り裂けそうだった。
伝えたかった一言を、口にすることさえできずに……
吹き抜ける風は、未だに鉄錆に似た血臭を孕んでいた。
においというより、風がその瞬間の記憶を反芻し続けているのだろうか。
薄れる気配はない。
「ひどい有り様だ。」
神甲機バルダから降り立った青年が独り言ちる。
荒れ果てた大地。
人影ひとつ無い。
敵も味方も。
負傷者すらいない。
命の気配が欠片もない。
土までもが、死んだかのように沈黙している。
大地のいたるところの穿たれた穴だけが、凄まじい戦闘のあった証。
「どうやら、全滅のようね。それにしても……なんか引っかかるわ。」
気になるのは、この地に残る気配。
残留光流ソーマとでもいうのか。
今までの『敵』とは明らかに異なっている。
それどころか、どことなく覚えがあるように思えた。
無いはずの記憶が呼び起こされる予感。
かつては知っていたのかもしれない。
転生前の自分ではない自分は。
「とにかく、天空殿まで戻って、調和神にご報告申し上げなければ。」
これは、一神将の手に負える事態ではない。
――デーヴァ存亡の危機
魂の記憶が警鐘を鳴らしている。
――我々は滅びるのだ
つかみ所のない焦燥感に、青年は急ぎ戻った。
――消えることのない罪ゆえに
早く手を打たねば、手遅れになる。
重厚な石造りの回廊を、足早に通り抜ける。
行き交う人々の表情には、切羽詰まった色が見当たらない。
本当に、今が戦時中なのかと疑ってしまうほどだ。
戦況は膠着し、良くも悪くもなっていなかった。
つい先日までは。
現在、変化が起きつつある。
デーヴァにとって、不利な方へと。
笑いさざめいて歩く足もとには、大きな死の顎が待ち構えているのだ。
輝かしい金髪の青年が蹄ずき、頭を垂れている。
「ご報告申し上げます。連絡の途絶えていた四天王東面軍の所在は確認できませんでした。」
息を飲む気配は、周囲に立ち並ぶ上級神将たちのものだけだ。
天空界の光流のバランスを司る女神のことである。
すでに、全滅したことを感知していたに違いない。
しばしの沈黙が重い。
破ったのは、調和神の傍らに立つ黒衣の男である。
威風堂々とした風格を持つ壮年の男は、武官の頂点に立つ者だ。
雷帝と呼ばれている。
「迦楼羅王、そなたが手ぶらで帰って来るはずはあるまい。何か分かったのか。」
永く調和神の側近を勤め上げてきただけに、何もかもお見通しなのだろう。
(隠し事なんかできないわね。)
まぁ、する気もないから構わないか。
事実を偽ったがためにデーヴァが滅ぶなんてのは御免被りたい。
それほどの大事なのだと直感が告げていた。
迦楼羅王と呼ばれた青年は、努めて平静に答える。
「戦闘跡を見渡す限り、負傷者も生存者もございません。おそらく全滅かと。」
調和神の治める天空界では、死体は残らない。
生命活動を停止したら、天空界を巡る光流源流へと帰るのだ。
生命の源へと。
だから、遺体が無いのは分かる。
だが、負傷者は違う。
通常の戦いなら、負傷者がいないなんてことは有り得ない。
いったい何が起こっているのか。
敵に大きな動きがあったという情報は入っていない。
連絡が途絶えていたのは、たったの一昼夜。
それで、あの二万もの大部隊が一人残らず殲滅させられるとは思えないのだ。
消息不明になる前の報告でも、大規模な戦闘が起きている様子はなかった。
大地は戦闘の痕跡をとどめているというのに。
何か、計り知れないことが起きつつあるのか。
「トリヴェーニーですか……」
それまで黙していた調和神が小さな声で呟く。
トリヴェーニーは、プラヤーガ平原を流れる三つの河川の合流点。
一軍が消息を絶った辺りである。
その地名に、何かの記憶が呼び覚まされたようだ。
早春の深い湖を思わせる瞳を、痛ましい色が過る。
一瞬にも満たぬわずかの間だけ。
瞬いた後、そこには毅然とした強い意志が宿っていた。
一神族の指導者にふさわしい強さ。
「トリヴェーニーは、主戦場から外れていますが、この戦における要の地の一つ。アスラにも他の魔族にも明け渡すわけにはまいりません。インドラ、代わりに派遣する部隊をとり急ぎ選出してくだい。」
黒衣の男が一礼して退出した。
雷帝は、軍部を司る最高位にある。
立ち並ぶ神将たちも、新たに派遣する部隊の準備をするべく散って行った。
人影がすべて消えたのを確かめ、女神は蹄ずいたままの青年へと視線を戻す。
「迦楼羅王。」
女神に呼ばれて、青年が面を上げる。
交錯する視線。
わずかの間に、迦楼羅王は相手の心の揺れを読み取っていた。
女神が躊躇っている。
デーヴァ神族の命運を背負っている調和神が。
女神には自信がなかったのだ。
己の選択が正しいのか。
これで、すべてが決まってしまう。
万に一つも、間違うことは許されない。
それでも、彼女は選ばねばならないのだ。
人々のため。
未来のため。
そして、『彼』のために。
「迦楼羅王に会わせたい人がいます。ついて来てください。」
向けられた女神の背中が悲しげに見える。
調和神の後ろに付き従いながら、迦楼羅王は思った。
女神は唯一人、癒されることのない哀しみの中で生きていると。
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