その瞬間、二人のあいだから『音』が消えた。
打ち合わされる剣や槍の響きも。
投げ斧や槍が風切る音も。
命の火が消える間際の叫び声も。
すべてが。
清らかな光の中。
舞い散る白い小さな破片。
上から、
上から、
降りしきる。
静かに、
静かに、
音もなく。
何が悲しいのか、無言ではらはらと花びらを落とし続ける。
侵しがたい、厳粛な一瞬。
状況を忘れ、思わず目を奪われた。
そこに立つ姿に。
ゆるく一つに束ねた、腰に届く月光色の髪。
陶磁器を思わせる、色白の肌。
細面の顔に鮮やかな色を与える、炎が凍ったような赫い瞳。
表情一つ変えない、整いすぎた容姿。
最初、人とは思えなかった。
こんなにも『綺麗』な人間がいるはずがない。
否、これほどまでに『綺麗』なまま、こんな穢れた世界で生きられはしないのだ。
まして、ここは世界で最も醜い場と化している。
人の我欲と我欲が衝突する所。
それが、唐突に生命を持った。
目があった瞬間に。
金剛石すら貫くのではないかというほどの力を持つ視線。
そこには邪気の欠片もない。
手にした血刀を伝い落ちる雫より鮮やかな真紅。
また、目の前を花びらが舞い落ちる。
白……ではなかった。
大地に滴り落ちた紅に、淡く色づいている。
思わず、身の内を震えが走った。
恐怖でも、畏怖でもない。
喜びに近いものだ。
彼と出逢ったことが、彼と戦えることが嬉しくてたまらない。
心のままに、一歩踏み出す。
前へと。
彼の方へと。
風が吹き抜けた。
変化のない日々。
凍りついた感情。
よりよき世界の構築を目指し、戦乱の世を終わらせるべく立ち上がったのは、いつのことか。
ほんの数年が、遠い昔のことだったような気がする。
そのときと今とで、何か変えられただろうか。
語り部の長老たちによれば、ここ千年の間、戦いは泥沼化しているという。
決定的な決め手を得られないまま。
戦いが戦いを呼び、血で血を洗う。
最初、無数の部族がそれぞれの信奉する神を信じ、その正義を行っていた。
正義とは、相反する教義を持つ者を排除することである。
皆殺しか、改宗。
どちらにしろ、民族としての滅亡に違いない。
強ければ生き、弱ければ死ぬ。
人の介入しない自然では当然の摂理だ。
力なきものは、淘汰される。
そんな世界を変えたいのだ。
強者が弱者を不当に虐げる、そんな無法がまかり通る世の中を。
(自分のしていることは、無意味なのか……)
虚無感に襲われる。
守りたいと言う端から、またひとつ命を消している。
敵とはいえ、人は人。
自分も同じ事をしているのだ。
敵を一人や二人倒す力を持っていても、何も変えられない。
力など、持っていてもたいしたことではないのかもしれない。
こんなざまでは、『世界』を変えることなんて到底できない。
そして、手になじむ剣を振り払う。
確かな手応え。
流れる命。
その向こうに、気配を感じた。
一人の少年が、真っ直ぐに見つめている。
何かに驚いたように、大きな目をさらに見開いて。
闇に属する色を纏う少年だ。
艶やかな漆黒の髪。
吹き抜ける突風が少年の短い髪をバサバサと乱し、長く伸ばされた後ろ髪の一束がはためく。
太陽に愛された肌は褐色に染まっている。
しなやかな全身から発せられる生命の躍動。
何よりも印象的なのは、強い意志の輝きを宿している黒い瞳。
大きな瞳が顔立ちを幼く見せている。
本当は、彼と同い年かもしれない。
(これは『敵』か?)
ここまで印象の強い者など、彼の味方にはいない。
いれば、必ず覚えている。
一度会っただけだとしても、きっと忘れはしない。
それに、闇に属する色を持つ者は、今戦っている敵の部族のはずである。
ここまで圧倒的な光を放つ存在が闇に属する者だとは……
彼の前に立ちはだかる者は、必ずや彼の理想の世界を実現させるには障害となろう。
倒さねばならない。
風が止まる――
合わせられた視線を逸らすことができない。
心臓が早鐘を打っている。
呼吸が苦しい。
動揺を押し隠し、少年は一歩ずつ歩む。
大地を踏み締め、確実な足取りで。
武器は手にしていない。
腰帯に三鈷杵を挟んでいるだけである。
防具も、左の肩当てのみ。
軽装であること、この上ない。
乱戦の最中といえ、敵陣真っ只中を進む装備でないのだけは確かだ。
常識から見れば……である。
(阿修羅の中じゃ、『常識』ってのはありえないけどな。)
案の定、愚弄されたと憤慨して飛び出してきた兵を触れることなく宙を舞わせる。
何のことはない。
掌に集めた気をぶつけてやっただけだ。
不用意に近づくなと警告するのに、血を流す必要もない。
この程度の連中を殺ったとして、かえって後ろめたくなる。
面倒は嫌いだ。
だから、簡潔に告げてやる。
「死にたい奴だけ、かかってこい。」
口許に笑みを浮かべて。
少年が近づいてくる。
白い花びらが舞い散る中を。
散る花は、少年を祝福しているかのようだ。
ひたと定められた目線が、彼の心を騒ぎ立てる。
向けられる敵意が心地好いだなんて……今まで知らなかった。
凍っていたはずの血が、少年の熱を受けて溶け出す。
動かずにいる彼を気遣い、近くにいた新兵が少年と彼との間に立ち塞がった。
(殺られる!)
自分が守らねばならない民を、目の前で死なせたくはない。
とはいえ、助けは間に合わない。
初めて戦場に出たような、若い命を無駄にしてしまうのか。
しかし、兵は弾き飛ばされただけにすぎなかった。
よくよく考えれば、少年は素手同然である。
三鈷杵を通常の武器として使った場合、一撃で致命傷を与えられないものだ。
(強い。)
己の強さを知り尽くしているようだ。
敵のあしらい方も。
敵陣での対処法も。
実に手慣れたもので、無駄がない。
そこに、挑発とも取れる少年の言葉。
強がりでもなければ、誇張でもない。
事実のみを告げるものだ。
外見に惑わされてはならない。
この少年は強い。
その上、戦いに慣れている。
大切なのは事実だ。
左腕を水平に出し、血気にはやる味方を抑える。
「手を出すな。皆の手に負える相手ではない。退け。」
少年の顔を見ていれば分かる。
この場にいるすべての者を死に至らしめることもできるのだ。
(無駄な命は散らせたくない。)
死ぬのは、自分だけでいい。
剣の柄を握り直し、血糊を振り払った。
再び構える。
両刃で細身の刃が昼空に取り残された三日月のようで、頼りない。
こんなのは、初めてだった。
剣を構える姿に、一瞬だけ迷いが過る。
(曲刀でも持ってくりゃ良かったな。せめて、短剣くらい。)
あいにく、少年の武器は三鈷杵と念のために隠し持っている独鈷杵のみ。
長剣とでは、間合いが違いすぎる。
(ま、いっか。)
この程度の不利な条件でそうそう簡単に負けるとは思えない。
それに、剣類の扱いは得意とは言えないのだ。
まともにやれるのは、儀式での『剣舞』くらい。
やはり、剣術よりは体術の方が良い。
痛みを直に感じられるから、手加減を間違わずに済む。
「行くぜ。」
トンッと軽く地を蹴り、彼の間合いの内へと踏み込んだ。
(速い!)
少年の動きを目だけでは追いきれない。
最初の一撃を、勘だけで弾き返した。
空に響く、かん高い金属の衝撃音。
返しの際の切り込みは、少年に掠りもしない。
(やはり、強いな。)
勝てる見込みはなさそうだ。
それでも戦わねばならない。
己の民を一人でも多く逃すために。
少年をこの場に引き止めることで、一人でも多く生かすために。
その願いだけは貫こうと心に決めた。
たとえ、自分がここで死ぬとしても。
覚悟を剣に乗せ、対峙する。
そうでもしなければ、こんなに眩しい存在の前になど立てない。
以前の自分なら、負けが分かっている戦いにこだわったりはしなかった。
回避したに違いない。
まるで、太陽のようだ。
少年は、自らの熱ですべてを巻き込み、灼き尽くす。
こんな罪深き戦場にいながら、穢れていない。
(その熱に侵されたのかもしれない。)
命をかけても、その視線を受け止めていたいだなんて。
交える刃の響きが『生命』の証し。
立ち続けていたかった。
少年の前に。
確かな手応え。
(そろそろ、頃合いか。)
このところ、物足りない敵しかいなかった。
欲望に塗れた人間なら、即刻あの世へでも送っている。
ようやく、気に入る相手を見つけたのだが、逃げ残っている敵の残党が殺気立ってきていた。
まだ、楽しみ足りないが……しかたない。
三鈷杵を高く掲げて回転させ、唱和する。
太陽の見立てた三鈷杵に、高めた気を集中させ、一気に解き放った。
溢れる光芒。
光も土煙も収まると、少年が目の前に立っていた。
「驚かして、悪かったな。ただ、どうしても確かめなくちゃならないことがあってさ。」
見回してみると、衝撃で倒れててるが、どうやら死人はいないようだ。
少年の伸ばしてきた手を掴んで立ち上がる。
「お前、何のために戦っている?」
少年が下から見上げている。
曇りのない瞳で。
「誰でも、脅かされない日々を過ごせるようにしたかった。すべての人とは言わないが。」
敵であったはずなのに答えを返していた。
久方振りに会った、信頼に値する人間だと思ったから。
「……それ、手伝ってやろうか。少なくとも、俺たちの部族は外部への侵略行為はしないだろうし、近隣に攻め込もうなんて奴がいたら、圧力をかけてやめさせることもできるぜ。」
まさか、協力を申し出られるとは……この少年がアスラの王なのか?
「俺、ただの神官見習いにすぎないけど、訳あって、今回は特別に王の代理なんだ。まぁ、確かに王とは血がつながっているから、王族とも言うな。」
王には、俺から言い聞かせといてやるという。
屈託ない笑顔につられ、彼も声を出して笑っていた。
夢を見てみないかと誘う声。
やる前からすべてを諦めることはないのだから。
>Post Script
>以前出した桜の時期の本です。
>"Snow White" は雪じゃなくて『何か白いもの』ってくらいの意味で桜のことでした。
>元ネタは恒例の春の花見のときに思い付いたもの。
>花見して綺麗と思いながら、煩悩(バトル)に耽っていたんです。
>
>初出: 夢・世界 第57回配本『Snow White Falling Around』(1998.5.3)
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