心騒ぐ潮騒の音。
繰り返し、
繰り返し、
体の奥底から聞こえてくるような……
目を開く。
ゆっくりと。
(ここは、どこだろう)
まるで、夢を見ているようだ。
目の前に広がる、明るい青。
吸い込まれるほどに透き通った色。
泉や湖よりはるかに大きい、無限の水面。
知らない風景。
(これは何だろう)
一歩踏み出した足もとが、さらさらと頼りなげな砂の感触を伝えてくる。
(話に聞いたことがある……)
波打ち際へ足を進めながら、記憶を辿る。
(『世界』のはずれには、『うみ』があるって)
『うみ』は『世界』をぐるりと取り囲み、その果ては大瀑布となって落ちてゆくのだ。
奈落の底へと。
でも、どうしてこんなところにいるのだろうか。
記憶にない。
確か、自分は眠っていたはずだ。
『世界』の中心たる天空樹で。
中心から果てまでというのは、そうそう簡単に辿り着けるような距離ではない。
霞のかかった意識。
現実味の薄い光景。
(これは夢だろうか)
何かが心の琴線に触れる。
後ろを振り返ってみると、誰もいなかった筈の浜辺に人影が現れていた。
遠くからでも目立つ、腰まで届く銀髪。
海辺だというのに、まったく日に焼けていない白い肌。
巡らせた視線が自分へと向けられた。
訝しげな表情。
彼の瞳は紅いのだろうか。
(逢ったことがある?)
強烈な既視感。
記憶には無い。
だが、覚えのある感覚が少年をその場へと釘付けた。
約束があった。
この命が尽きたとしても、また逢おうと。
さらさらと、足元から流れてゆく砂。
寄せては返す波打ち際。
今日も待つ。
彼が来るのではないかと。
可能性のほとんどない希望にすがり、待ち続ける。
そうして待ってきた。
これからもずっと。
この世が終わる、その瞬間まで。
延々と続くのだと思っていた。
それを見るまでは。
最初は気配だった。
姿のない気配。
あるはずのない他者の存在を感じ取り、侵入者を探す。
それが幾日続いたことか。
その気配は、日に日に強くなってゆく。
そして、今日。
とうとう、完全な姿を見出した。
「ここは何処?」
小首を傾げ、それは訊ねて来た。
警戒もしない声音。
「出て行け。」
短く告げる。
ここは『聖地』。
戦いの中、あれが好きだと言っていた光景だ。
何人たりと、あれ以外の者を立ち入らせはしない。
この地を穢したものを許しはしない。
しばらく使っていなかった愛剣を抜き放ち、一気に袈裟がけに斬り下ろした。
(なに?)
あるはずの感触が無い。
避けられるような状況ではなかった。
普通の相手なら。
改めて闖入者を見やる。
背後へと跳躍し、剣閃から逃れてぱしゃりと水音をたてて着地していた。
それは、まだ少年と呼ばれるべきものだった。
成長途中らしく、筋肉は付いているものの手足はまだ細い。
太陽に愛される肌はほどよく焼け、健康的な色をしている。
伸ばされた黒髪を背で一つに結い、疑うことを知らない大きな黒い瞳を見開いていた。
(似ている!?)
驚くほど、あれに似た容姿。
纏う気まで似通っている。
(そんなはずはない!)
心に走る動揺。
自分でも、剣の先が揺れているのが分かる。
気の遠くなるほど待ちながら、諦めていたのだ。
あれの完全な転生は絶望的だったから。
転生どころか、消滅の可能性の方が高かった。
(これは違う!)
否定しようとした。
これは、待ち焦がれていた存在ではないのだと。
剣に纏い付かせた風を叩きつけた。
動揺のせいで隙だらけの攻撃。
少年が右手を前に突き出し、難なく小結界で受け止める。
そして、反撃に転じてきた。
拳に宿る、光輝く光流。
確信が強まる。
仮にも、八部衆である彼の攻撃を、素手の子供に止められるはずない。
身のこなし。
攻撃の癖。
すべてがあれそのもの。
帰ってきてくれたのだ。
夜叉王のもとへと。
唐突に、それが口を開いた。
「お前、泣いているのか?」
攻撃の手が止まる。
そんなはずはない。
涙など、あれが死んだときでさえ流れなかった。
人としての心が欠落しているのか、とうの昔に涸れ果てているのか。
「やっぱり、泣いてる。」
確信のこもった声。
大きな瞳が、心の内まで見透かしているようだ。
あれを失った瞬間から、血を流し続けてきたものの存在を。
その一言が決定打だった。
剣を向けられ、殺されかけて。
こんな状態で、こんなことを言う奴を他に知らない。
「修羅王……」
呼びかけは風に攫われていった。
「シュラト、どこにいるんだよ。シュラトってば!」
吹き渡る風へと身をまかせる心地好さに、うつらうつらと寝入っていたらしい。
自分を呼ぶ大声で意識が呼び戻される。
「ここだ。」
応えてやると、大人の背丈ほどの草むらがガサガサと音を立てる。
草を掻き分け、ひょこっと顔が表れた。
十代半ばといったところか。
(違う……)
強烈に沸き起こる違和感。
心が訴えてくる。
待っていたのは、彼ではないと。
「こんなとこでなにしてんだよ。」
同期の少年が訝しげに問いかけてきた。
「夢見てた。」
「夢だって? 呑気なもんだな。向こうの方で、お前のこと探してたぞ。」
実は、シュラトは神将候補生である。
志願者の他に、身寄りがない子供などを集めているためだろう。
神将になろうなどと考えたこともないが、物心ついた頃から天空殿にいた。
すっかり忘れていたが、今日は練習試合があったのだ。
「お前、いったい何の夢見てたんだ?」
シュラトは身体を動かすことが好きである。
その彼が、試合そっちのけで見ていたという夢に興味を覚えたのだ。
「『うみ』さ。」
「ウミ?」
聞き慣れない単語に、相手は首をひねっている。
「ウミってなんだよ。」
知らないのも無理はない。
一般の天空人が、海を目にする機会など滅多にない。
「湖のもっと大きいんだよ。見渡す限り水面が続くのさ。それこそ、世界の果てまで。」
一目で気に入った、広大な光景。
「そんなのあるはずないじゃん。」
信じようとしない相手に、信じさせるのは困難だ。
「天空界のはずれにあるって。」
そう聞いていた。
ずっと昔に。
「見たことあるのか、シュラト。」
「多分……生まれる前に。」
かすかな記憶。
今世では有り得ない光景。
誰かが隣にいたのだ。
はっきりとは覚えていないけど。
思い出そうとするだけで無性に哀しくなるほど、大切な存在がいたのだ。
心に引っかかる……
(あれは、誰だったのだろうか)
夢の中、斬りつけてきた相手を思い出す。
無性に心乱される存在。
逢いたいと思う。<End>
>Post Script
>
>なんだか、海の話を書きたくて作った話です。
>夏だったしね。
>
>初出: 夢・世界 第60回配本『Lagoon』(1998.8.30)
<お手数ですが、メニューに戻るときはウィンドウを閉じて下さい>