『声の続く限りおまえを呼び続けた』
呼ぶ声が聞こえる。
風に紛れるよう、遠くからかすかに。
己の名と似て非なる音。
にもかかわらず、その名が指し示すものが自分であるのだと分かった。
天地も分からぬ、不確かな空間。
足下に大地の感触はない。
これは、夢の中なのか。
少しずつ近付いてくる声の主を振り返り、己の口から零れたのは一つの称号だ。
「夜叉王……」
やはり、その名だった。
その音すら飄々と吹き抜ける風に攫われ、相手に届くことはなかっただろう。
現実の彼に己の声が届かないように。
何となく、周囲が騒がしい。
もう、朝なのか。
眠りが浅かったのか、あまり寝た気はしない。
あと少し……と身じろいだところで、容赦のない足蹴に起こされた。
このクリーンヒットぶりは、きっとヒュウガだ。
ついで、リョウマの呆れたといった様子を滲ませた声が降って来る。
「いい加減、起きた方がいい。」
でなければ、ヒュウガがますます怒り出して手をつけられなくなるからと。
秋亜人は渋々と身を起こした。
追跡されての逃避行――のはずだが、天空界と人間界は違うものらしい。
まさか、不寝番を立てずに全員で寝るとは思いもしなかった。
他の四人が言うには、敵が近付けば嫌でも目が覚めるとか。
ただし、刺客が闥婆王だった場合、完全に気配を断てるとも。
もっとも、彼の性格から警告なしに攻撃される恐れは少ないので、その点は安心していいらしい。
どちらにせよ、見張りは無意味になるから無しにしようと決まったのだ。
デーヴァ神軍の全軍を敵にしているわりに、のんびりとしている。
十歳余りで八部衆に選ばれただけあって、肝が座っているに違いない。
「まだ寝惚けているのか。」
なかなか動き出さない秋亜人を叱咤してきたのは、天王ヒュウガである。
幾度か意見を衝突させ、彼が生真面目な性分だというのは秋亜人の身に沁みていた。
「夢を見ていたみたいだ。知らない奴のことを、夜叉王って呼ぶ夢。」
何を暢気なと怒られるかと思ったが、傍らからリョウマが助け舟を出してくれた。
「そうか、シュラトは知らなかったな。八部衆に限らず、主だった神将は数人の魂が順番に転生しているそうだ。
だから、シュラトが見たという夢も、実際にあった出来事かもしれない。」
単なる夢や願望ではなく、過去の記憶を映し出しているのかもしれないと。
ならば、あの声の主は凱でない可能性もあるのか。
あんなにも、似ていたというのに。
姿形ではなく、魂の持つ気配がそっくりだった。
その会話に、レイガも加わる。
「でも、修羅王と夜叉王は例外的に同じ魂の繰り返しらしいって聞いたことあるわよ。
だから、他の神将に比べて転生してくる周期が長いって。」
力を使い果たした魂が癒えて再び生まれるまで。
その周期は、約数千年から一万年とも言われている。
「同じ奴が転生してくるなら、名前で呼ぶんじゃねぇの?」
普通であれば、親しい間柄なら名で呼ぶのが一般的だろう。
と訊ねた秋亜人の言葉に、レイガが首を横に振った。
転生するたびに名は変わるから、称号で呼び合っていたという話もあるとか。
「そう……なのか?」
「あんたが見たって夢、もしかしたら先代の記憶かもしれないわね。」
つまり、アスラ神族と戦った一万年前だ。
「それなら……夢の続きは見たくないな。」
そう呟く表情に影が見える。
「シュラトちゃん?」
「だって、破壊神を倒すのに、八部衆は全滅したんだろ。」
だから、先を夢見るのが恐いのだと言う。
友と死に別れた前世の記憶を、好き好んで思い出したい者はいるまい。
「そうね。でも……」
珍しく言い淀んだレイガ。
ただ、途中で言葉を切られれば、かえって気になってしまうものだ。
秋亜人は言葉の先を促す。
「何?」
「夢の中の夜叉王は、あんたに思い出してもらいたいのかもしれないわ。
あんたが、人間界にいたときの彼にしか目を向けようとしないから。」
「あいつは夜叉王じゃねぇ、凱だ。」
人間で、ただの高校生で。
「本当のあいつは、誰にでも優しくてさ。」
ともかく、人を殺すだのと軽々しく口にする奴ではないのだと言い募る。
「いい加減に現実を認めろ。」
「まぁ待て、ヒュウガ。」
リョウマの制止も空しく、秋亜人は仲間に背を向け、頭を冷やしてくると言い置いて行った。
黒髪の少年の背を見送り、レイガがぽつりと零す。
「でも……あいつはシュラトを殺してないのよね。
あんなに無防備な子だもの。
ひと思いに殺せたんじゃないかってときもあったのに。」
そう、最初に転生したての二人を迎えに出たときもそうだった。
「それをシュラトに言ってやるなよ。迷いはあいつを殺しかねん。」
「分かってますって。」
軽口を叩きあう彼らとて、かつて仲間だった者たちと戦わねばならない身である。
騙されているだけだと分かっている友人や知人を、使命のためだからと倒すことができるのか。
神将として訓練を積んできたからといって、割り切って迷うことなく相手を倒せるわけではない。
まして、何の心得もないまま、突然に見知らぬ世界に放り込まれた少年だ。
先に立つのは、郷愁の念に違いない。
寝言で、親友の名とともに小さな声で帰ろう、帰りたいと繰り返されるのが胸に痛かった。
仲間を倒さざるを得ない状況は、八部衆の責任感をもってしても辛く重いものである。
そんな暗い状況の中、彼らにひとつだけ希望が残された。
戦闘中、夜叉王が正気にかえったらしい。
らしい――というのは、秋亜人以外は元の彼を知らないから判断しかねたのだ。
秋亜人に向ける、穏やかな表情と気遣い。
追討の部隊を率いていた間、よく目にしてきた冷笑の影はなかった。
それだけを見ていれば、今まで秋亜人が切々と訴えて来たことを信じる気になれた。
見つめ合うだけでは、相手がここにいるという実感が足りない。
凱の延ばした手を掴み、零れ落ちる涙を隠しもせずに秋亜人が気持ちを表わす。
「凱……俺、嬉しくて嬉しくて……」
伝わる体温が心に温かい。
このまま時が止まれとさえ、少年は願いそうになった。
「秋亜人……」
その音だ。
他の八部衆が発するのとは異なる響き。
人間界から離れた今、その名で呼んでくれるのは凱だけだった。
凱が隣にいてくれるならば、どんなに苦しい状況でも切り抜けられるだろう。
これからは共にゆくのだと確信していたというのに。
敵には凱を手放す気などまったくなかったのだ。
凱を捉えた光流が、天空樹の頂上まで昇ってゆく。
引き離される姿を追いかけ、もつれる足を叱咤しながら走った。
「凱!」
ただ、一心に。
それで追い付くというものではなかったが。
希望を夢見た直後だけに、心の内に空いた穴は深く大きかった。
雷帝を倒したというのに、調和神の間には石化したままのビシュヌ神の姿。
「危ない、シュラト!」
呆然と床に座り込んでいた秋亜人を庇い、ヒュウガが凶刃に倒れた。
嘘だと叫んで目を閉じてしまえれば、どんなに楽か。
「どうだ、友に友を殺された心地は。」
これが、本当にあの凱なのか。
「ガイ! おまえって奴は……!」
――あいつは優しくて……
己が仲間に言い聞かせて来た言葉が遠くなってゆく。
もう、秋亜人の知る彼はどこにもいなくなったのだ。
「許さねぇぞ、夜叉王!」
心を満たす激情の奔流。
これは、『敵』だ。
戦い、倒すべき相手だ。
そう認識し直して見据える。
強さ、技倆とも申し分無し――好敵手だ。
秋亜人は、己の武器たる三鈷杵を握り締めた。
雷鳴の轟く中、蒼白い光に消えて行く彼の姿を目で追う。
「が……い……」
伸ばした手は届かず、力を失って床に落ちた。
皮肉なことだが、命をかけた死闘の中、秋亜人は凱の存在を実感していた。
無駄の少ない、流麗な動きの一つ一つ。
秋亜人だけを見つめ、逸らされることのない瞳。
それらは、ここに在る者の魂が、彼であることを示していた。
復活したビシュヌ神は、束の間の平和に過ぎないと言っていた。
己に与えられた部屋は、居心地が悪い。
転生して来た日のことを思い出してしまう。
「凱……おまえ、今どこにいるんだよ。」
破壊神の力で復活したのだという。
須弥山で再会した彼は、変わり果てていた。
身にまとう光流は、より黒の呪縛が強く。
それが、親友であることを口で否定しても、心の片隅では確信していた。
……あれは凱なのだと。
どんなに言葉で否定しようと、あれは凱で――凱は夜叉王だ。
あまりの非情さと狂態に目を背けてしまいたくなる。
秋亜人の知る凱ならば、味方を駒と割り切ることなんてできないはずだった。
まして、目的の為とはいえ、武器も持たぬ少女に刃を向けるなんてことは。
それでも、凱なのだ。
どんなに、秋亜人の前で強くあろうとしていても、彼とて人間だ。
心の内に弱さを内包しているのは当然のことであって、彼が悪いわけではない。
当たり前のことなのだ。
そんな自身を許せずに追い詰めていては、彼のためにならない。
このまま、見過ごしては手遅れになってしまう。
そして、永久に彼を失うことなど、少年には耐えられるはずがなかった。
目を開けると、月が天頂より西に傾いていた。
夜明けまであと少し。
この、夜と朝の境がはっきりしない時間なら、生と死の境界も虚ろな時間なら。
届けてくれるかもしれない。
「ここにいるのか――凱……」
破壊神との戦いの最中、凱は秋亜人を庇って光流に還った。
本来なら次の転生への道を辿るところを、秋亜人と同化して残ることになったのだ。
肉体がないから、呼ぶ声も聞く耳も持たない。
それでも、少年の声に応えるように一陣の風が吹き抜けた。
<End>
>Post Script
>修羅王編に続き、夜叉王編を読みきりから再録です。
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