『声が嗄れるまで呼び続けたかった』













初めてあれを見たのはいつだったか。
実のところ、よく憶えていない。
色も音も意味を持たない日々に、時の経過は必要なかったからだ。
ただ、そこが戦場であったのは間違いない。
その瞬間だけを鮮明に思い出すことができる。









いまだ天空界は混沌期にあり、数多くの部族に分かれて相争っていた。
彼自身の率いる夜叉の一族もまた、その一つである。
勇猛果敢で知られ、周辺部族を併呑し、領土を広げつつあった。
その勢いに押されてか、最近では戦いになる前に申し入れがあることも多い。
気乗りしないながらも、王の務めとして彼は使者の口上に耳を傾けなければならなかった。
彼にとって、それが耐え難い苦痛だった。
連中の申し出を受ければ、労力をかけずに領土が広がり、貢ぎ物も継続的に入るようになる。
為政者ならば、歓迎するべき事態なのかもしれない。
それでも、彼の気は進まなかった。
機嫌をとるような美辞麗句は虚ろで、心に響くものではない。
また、偽りの言動は醜悪極まりないものだ。
彼の退屈を感じてか、使者が一つの噂を口にした。



「夜叉といえば、武勇に優れた戦士に恵まれているとお聞きしておりますが、近隣に出没する者どもの噂を耳にされましたか?」
唐突に振られた話題に、わずかながら表情を動かした。
重臣らからも、情報収集の為に放っている者からも、そのような報告は受けていなかった。
彼の気をひこうと、根拠の薄いよた話でも持ち出したのだろう。
暇つぶし程度にはなるかと、視線で先を促した。
「姿を見せるのは少数でありながら、想像を絶する強大な光流を持つ輩が出没しているそうです。
 先日も、我々と西の小部族との戦いに介入して来まして。
 あと一息で連中を根絶やしにできるところまで追い詰めながら、彼らの出現で我が方の手勢は全滅寸前に追い込まれてしまいました。」
それで、夜叉に従属するとの申し入れを決めたのか。
どのような理由であれ、敵が数人に過ぎないというならば形勢逆転にも程がある。
「あまりの戦闘力の高さ故に、神の不興を買って滅ぼされたというアスラの亡霊ではないかと言い出す領民もいる始末でして。」
『アスラ』と聞き、興味が湧いて来た。
かつてデーヴァ神族に敵対し、滅ぼされたという伝説の魔族の総称である。
「どのような奴なのか?」
デーヴァの先人たちは、連中との戦いに難儀したものらしい。
力ではどうあっても適わず、知略で陥としたと言い伝えられている位だ。
「生き残りの話では、彼らの指導者と思しき黒髪の少年と、その従者ではないかと目される数名のみとのことでした。」
「黒髪の……少年だと?」
少年と表されるということは、本来なら戦場に立つには若すぎる位の外見ということか。
心の琴線に引っ掛かるものを感じた。
既視感というのか。
そう、彼が戦場で見かけた少年も黒髪だった。
一度だけにも関わらず、いつまでも印象に残っている不思議な相手。
是非とも、会ってみたいものだ。
「少年と言いましても、とてつもなく強くて油断ならないとか。ともかく、彼らは見た事のない光流を使うそうです。」
デーヴァの民が使う光流は、『白の光流』と呼ばれるものだ。
それに対し、アスラが使ったのは『黒の光流』である。
上に冠される色がから分かるよう、二つの光流は性質が異なってた。
一般的に、白は調和、黒は破壊を表わすと聞く。
彼は近くに控えていた付き人に地図を持って来させた。
使者の前にテーブルを用意させ、地図を開かせる。
そこには色々と書き込みがなされ、常に最新の情報が分かるようになっていた。
普通、他部族の使者などに見せるものではない。
部族内の機密事項にあたるものだ。
「今までそやつらが現れた場所はすぐに分かるか。」
「あの……」
極秘情報の塊とも言える地図を見ていいのかと、使者は戸惑いを隠せない。
「連中が本当にアスラの亡霊だというならば、面白い。会ってみたいものだ。」
そう言うと、知る限りの出没地点と日付を書き込ませる。
その中の一つがハラッパーだった。
成る程、アスラ神族の亡霊などという噂が立つはずである。
目撃情報があったのは、どれもかつてのアスラの版図における都市跡の近くだったからだ。
次いで、争いが起こりそうな部族をリストアップする。
地図に付けられた印とリストを一瞥し、彼は一点を指差した。
「おそらく、次に出没する可能性が高いのはここだろう。」
そこは。モヘンジョ・ダロと呼ばれる地だった。
古い都市跡であり、現在では住む者もあまりない。
使者が上目遣いで口を開く。
「怖れながら、そこは争いの火種のない地域でございますが。」
今の所判明している地点というのは、部族間の戦いがある場所だった。
人が住まない遺跡に現れるとは、考え難いと言う。
「それに、特に交流のない他部族の土地でございますので、兵を向わせることは致しかねます。」
使者は、彼が戦いに向かうのだと思い込んでいるようだ。
「余分な手勢は必要ない。相手が本当にアスラの末裔ならば、どれだけ数を揃えても無駄になるだけだ。
 それに、連中の狙いは他部族の殲滅ではないだろうからな。」
夜叉王には、彼らの狙いが分かりつつあった。



目の前には、踏み荒らされた合戦跡。
「遅かったか。」
遺留品などから、少し北側に住む部族がここまで追い込まれて来たものらしい。
場に残る光流の気配は、まだ新しかった。
その部族が南下して来ているとの情報が彼の耳に入った頃には、敗走し始めたと推測される。
少人数なのをよいことに、かなり強行軍で先を急いだのだが間に合わなかったようだ。
「だが、今回はこれで満足しているようには見えないが。」
使者に尋ねてみると、やはり他所に比べて破壊の爪痕はあまり残っていない方だという。
彼らがこれからと思った頃合に、敵が敗走したのだろう。
「ならば、戻って来るかもしれないな。」
と言い、遺跡の外で野営の準備を指示する。
それから程なく、剣戟の音が風に乗って届いて来た。
彼らは音のする方へと足を向ける。
そこには、もう一度会ってみたいと思っていた姿があった。



敵味方が入り乱れた混戦の中、あれだけが色彩を持っていた。
神甲冑や防具に身を固めた人々の間で、少年の無謀とも言える軽装はかなり目を引く。
遠目にも白い紗。
乱戦の真只中にいるから土埃で真っ白とはいかないが、大きな血の染みなどは見当たらない。
頭部を被うものもなく、漆黒の短い髪が吹き荒れる風に靡いていた。
右手には三鈷杵、左手には片手剣。
体躯逞しい人々の間に埋もれてしまいそうな小柄な体。
それが素早く一閃すると、周囲の敵が薙ぎ倒される。
「あの部族を助けなくてよろしいのですか?」
訊ねてくる使者に、彼は不思議なものを見るような目を向けた。
「ここまで足をのばしたのは、あれと戦うためではない。会って、話してみたかったからだ。」
そんな酔狂なと独り言ちる使者を後ろに残し、彼は少年の許へと歩き出した。



ほぼ決着はついていた。
「おまえはアスラか?」
少年の少し手前で足を止め、彼は訊ねた。
最後の一人に止めを刺し、少年が彼の方を振り向く。
「失礼な奴だな。いきなり『非天(アスラ)』かとか訊くなんてさ。そういうあんたはどうなんだ?」
名は体を表わすという。
無闇に名乗ってよいものではない。
名を知られれば、利用される可能性があるからだ。
「あんたが名乗るなら、言ってもいいぜ。別に、本当の名を言えってわけじゃない。偽りの名前でも構わないさ。
 俺もそれに応じて答えるだけだ。」
嘘をつく気にはなれなかったが、名を告げるわけにもいかない。
「夜叉王だ。」
苦肉の策で称号を名乗る。
「へぇ、あんたが。」
一瞬、少年の黒曜石の瞳を鋭い光が過る。
「王、そのような裏切り者どもの血を引く者に関わらぬ方がよろしいかと。」
影のように少年に付き添う男たちが囁きかけた。
嘘、偽りは彼の嫌うことである。
「裏切り者だと?」
少年を見ると、その言葉を否定する気はないようだ。
「知らないのか。まぁ、そうだよな。あいつらが真実のことを伝えるとは思えないからさ。
 俺たちを裏切った夜叉王ってのは、あんたじゃない。何代も前の奴だ。
 こんなご時世だから、あんたと奴は血がつながってない可能性もあるな。
 それはともかく、俺は修羅王だ。デーヴァに騙し討ちにされた、阿修羅神族の最後の王。」
少年の発音は彼のと似た音でありながら、全く異なって聞こえるから不思議である。
「亡霊か?」
少年の物言いだと、万単位の年月を生きて来たかのようだった。
「あんた、俺が死んでいるように見えるか? 
 そりゃ、普段は封じられて眠りに就かされてるから、普通に生きているとも言い難いけどさ。」
飄々とし、こう見えてもあんたよりずっと年上なんだぜなどと信じ難いことを口にした。
少年の顔で数万歳と言われても実感が湧かない。
「何故、このようなことをしている。」
無意味な大量殺戮なのか、理由あっての戦いなのか。
戦いというには、少年らが強過ぎて一方的に殺しているように見えてしまうのが難だ。
「あんたなら、理由位分かってんじゃないのか。」
「封印を解こうとしているように見えるな。」
「その通り。というわけで、邪魔をするというなら力尽くでいくぜ。」
そう言うと、少年は不敵ににやりと笑った。
己に自信のある表情。
嘘も偽りも誇張もない。
彼は少年に好感を抱いた。
「おまえたちの目的を邪魔する気はない。ただ、会って話をしてみたかっただけだ。」
「夜叉はデーヴァに恭順した部族だろう。いいのか?」
「姿も見せない神より、おまえの言葉の方が信じられる。そのだけだ」
それから、彼は度々少年に会いにゆくようになった。





守る者もなく、力なく倒れた体。
少年を覆う力は、強大な白の光流。
デーヴァの神々の仕業に違いない。
「修羅王!」
抱え起こすと、少年の瞼が薄く開かれる。
「夜叉王か……油断した……」
泣き笑いの表情。
「馬鹿だよな、俺。二度もあいつらの罠に嵌るなんてさ。」
遠くから少年を攻撃したのは、デーヴァ神族を統治する創造神と調和神の光流。
どうみても致命傷だった。
「修羅王、逝くな!」
「あんただけは阿修羅を……真実を憶えていてくれるか?」
応えるように少年の体を抱き締めた。
腕の中で、しだいに重さがなくなってゆく。
天空界では、命が尽きれば生き物の体は光流源流へと帰るのだ。



少年を抱きかかえた姿勢のまま、彼はしばらく放心していた。
そして、天を振り仰ぐ。
声が嗄れるまで、おまえの名を呼び続けたかった。
称号ではなく、真実の名を。



<End>





>Post Script
>書いた本人は、このシチュエーションがかなり気に入っていたので、在庫のなくなった読み切りからの再録です。



<お手数ですが、メニューに戻るときはウィンドウを閉じて下さい>