『青の記憶』







見渡す限りの青
視界に入るのは、それだけだった




















空に浮かぶ巨大な岩。
その上に造られた建造物。
緻密な紋様を刻まれた壁。
所々に見事な造形の彫像や柱が立ち並び、さながら空に浮かぶ城のようであった。
ただし、欄干や手摺には蔦が絡まり、人の手が入っていない植物どもが回廊を侵食している。
ほとんど人の気配はない。
誰もいない廃虚。
ひっそりと、ただそこに在る。
忘れ去られた……墓標のように。



人気のない回廊に、少年が一人立っていた。
艶やかな黒い髪が風に嬲られている。
その襟足の髪だけが背の中程まで伸びていた。
鬱陶しいのか、そこだけを無造作に束ねていた。
血を思わせる紅い紐で。
材質は上質らしい白い布を肩の所で結び、腰のあたりに帯を締めている。
透明な光を宿した黒い瞳を真直ぐ前へと向けていた。
ひたひたと。
靴も履かない素足で歩む。



半球状の天井。
明かり取りの窓から差し込む日の光が、円形の広間の中央へと降り注ぐ。
そこに聳える一本の老木。
周囲に散らされた、無数の水晶の破片。
気が付いた時、少年はここにいた。
それ以前の記憶はない。
どうやってここに来たのか。
どうしてここにいるのかさえも分からない。
それでも、脳裏を過る光景があった。
目覚めてから一度も目にしたことのない、燃えるような紅い空。
さらさらと流れる銀糸。
誰かの後ろ姿。
いつも無意識に探している、その姿。
それを想うと、いつも胸が痛くなる。
身を引き裂かれるように。
あれは、誰なのだろう。



少年は建物の外に出る。
建造物の残骸を縫って散策するのは、いつの頃からか日課になっていた。
今にも崩れ落ちそうな足場から覗くと、眼下に広がる青海原。
果てしない青。
それが空まで繋がっている。
天高く聳える白雲。
少年の耳に聞こえるのは、風の哭き声だけ。
日に日に逸る心。
何かが欠けている。
何かが足りないと。
訳の分からない焦燥感が身の内に巣食っていた。
このまま、ここに居てはいけない。
でも、どこに行けばいいというのか。
それが分からない。
そもそも、外に行けるのだろうか。
青い空しか見た事が無いだなんて。
ここは……閉ざされている場なのだ。



何かが違う。
ふと、気付かされた変化。
空気が違う。
回廊を吹き抜けて行く風が。
何かに誘われるように、中央の円形天蓋へと向かった。
床に散らばる水晶片が、仄かな光を発している。
少年が見ている間に、一枚の光の泉が形成された。
何が起きているのだろうか。
好奇心の赴くままに覗き込むと、眼下に広がる緑の絨毯。
見た事などない筈なのに、懐かしい光景。
その合間に、大地が剥き出しになっている部分がある。
見たいと思った場所が、大写しになった。
そこは小さな集落だった。
この広間にあるのと似た巨木を中心に作られた村。
人々の生活。
思わず身を乗り出し、腕をつこうとした瞬間。
そこに床は無かった。
前のめりに、光の中へと吸い込まれる。
すべてが飲み込まれた後、光がとぷんと波打って静まった。















どこまでも堕ちてゆく感覚。
いつまで続くのか。
不安になってきた頃、急に視界が開けた。
同時に、全身が水に受け止められる。
そこは、泉の中だった。
ちょうど居合わせた村人が、何事かと視線を向け、慌てて手を差し伸べてくれる。
彼らのおかげで何とか岸に引き上げられた。
ただ、落下の際に結構な量の水を飲み込んでしまい、しばらく咳き込みが止まらない。
その間中かけられた言葉には、あまり馴染みが無かった。
言葉に潜む力から、意味は分かるのだが……
「大丈夫か?」
案じてくれる言葉に、頷いて返す。
「あんた、この辺りじゃ見かけない顔だね。何処から来たんだ? 名前は?」
矢継ぎ早に投げかけられた問い。
それに答えようとして、己の内にその答えが無いことに気付いた。
自分の居たあそこは、何処なのだろうか。
無意識に空を見上げた。
だが、その痕跡一つ見出せない。
己の名でさえ。
自分自身については、何も思い出せない。
目覚める前の記憶は無かった。
それから今まで、誰にも名を呼ばれることがなかった。
分からない。
自分自身の名が。
誰かに呼ばれれば、それだと分かるかもしれないが……
ふるふると首を横に振り、分からないのだと答える。
「ここは何処?」
逆に問い返してみた。
そう口にした途端、村人たちが怪訝そうな表情をする。
言葉が通じないのだろうか。
男の一人が身軽そうな子供に何かを言い付けている。
誰かを呼んで来いと言っているようだ。
些程時を置かずして、白く長い鬚をたくわえた老人が連れられて来た。
察するに、この集落の長なのだろう。
少年を観察するように眺め、それから問う。
「何か名乗れぬ訳でもお持ちですかな?」
その問いに首を横に振った。
使われる言葉が妙に丁重なのは、何故なのだろうか。
「我々の言葉が理解できないのか。それとも、我々如きとは口をきけぬとでも?」
「俺は……」
そんなことは無いと咄嗟に口端に上った言葉に、老人までもが訝しさを隠せないでいる。
自分の話す言葉は、そんなにも奇妙なのだろうか。
目覚めてからずっと独りきりだった為、ほとんど声を出していなかったのは確かだ。
きちんと、声が出ていないのだろうか。
「これは……どうしたものでしょう。こちらの言うことは通じているようなのですが。」
村人の一人が困惑したように言った。
「我々の光流とは違う色をしているが、敵と同じという事でもない。」
「この格好では、そんなに遠くから来た様子ではないと思うのだが……」
確かに、少年は裸足のままだった。
しかも、服は水に濡れただけであって、汚れた様子は見受けられないときている。
旅人でないのは明らかだろう。
「それにしても、この光流の格の違いは……ただの天空人とは言えまい。」
「何処ぞの神将なのでは? 近くに陣を一体何処の……」
「取り敢えず、何処かに閉じ込めて置くしかあるまい。」
「そうだな。あの祀りが終わるまでの間は。」
祀り……祭りではなく?
「このような少年が、『災厄』だとは思えぬ。いらぬ混乱を招く必要は無かろう。」
長老の言葉で、少年への措置が決定される。
そのまま、村外れの一軒家へと連れ込まれた。



扉が開く。
「様子はどうだい?」
尋ねながら入って来る青年。
あの時、泉の傍にいた中の一人だろうか。
「アムリタと食い物持って来たんだ。ここに置いておくよ。」
見張りの男の前に籠を一つ。
そして、少年の目の前にも一つ。
じっと籠を見つめてから、少年はこういう場合にかけるべき言葉を思い出した。
「ありがとう。」
すると、青年が軽く驚いたように目を見開く。
やはり、言葉が通じていないようだ。
「本当なんだね。」
青年が、見張り役の男へと話し掛けている。
「どういう呪いなんだろう。きちんと話しているらしいのに、その意味だけが失われてしまうだなんて今まで聞いたことがない。」
「そう言えば、祭司殿は何ておっしゃっていた?」
長老が少年への対応を相談していた筈だった。
「どうも、様子がおかしいんだ。この子のことなんて、気にしていられないようで、『災厄』は既に解き放たれてしまったとか言ってるらしい。『災厄』って何なのだろうね。」



夜も更けてきた。
扉に錠をかけただけで、見張りは引き上げてしまっていた。
どうしたものだろうか。
元の場所へ戻りたいとは思わない。
そして、このままここに居る気にもなれない。
自分の居場所がないのだ。
何処にも。



うとうとと眠りかけていたが、妙な気配に目を覚ます。
心が落ち着かない。
血がさざめいている。
外の様子がおかしい。
パチパチと爆ぜる音。
人々の怒鳴り合う声と悲鳴。
命が消えて行く気配。
何が起こっているのだろう。
余計な混乱を招きたくないのでしばらく大人しく待っていた。
だが、聞こえて来るものがある。
何かが己を呼ぶ声。
誘われるように扉へと手をかけた。
結界が張られている様子は無い。
素足のままだったが、蹴りの一つで難無く開いた。
眼前に広がるのは、燃える村。
炎の色が、失われた記憶を疼かせる。
「行かなくては……」
何かに導かれるように、村の中央へと歩き出した。



少年は、行く手を塞ぐ者に容赦しなかった。
襲いかかって来る者をすべて地に沈める。
己が過去に戦った記憶は無かったものの、躯は覚えているようだ。
意識する前に敵の攻撃を受け流し、一撃で仕留める。



もう、動くものはほとんど無い。
村の中央広場には、小さな祭壇のような物が作られていた。
彼らの口にしていた祀りの為のものだろうか。
祭壇の上に何か小さな物が安置されている。
武器……なのだろうか。
手を伸ばすと、触れる直前で弾かれた。
結界が張られている。
破れない程のものではなかったが。
もう一度。
手を伸ばそうとして、その気配に気付いた。
風が動く。
結界が疾風に斬られて消えた。
振り向くと佇む人影。
星明かりだけでは、よく見えない。
黒い外套を纏った……青年と言うにはまだ早いかもしれない。
銀の髪。
瞳は紅いのだろうか。
心臓が早鐘を打つ。
自分は彼を知っている?
「誰?」
この言葉は届くのだろうか。
返らない声。
わずかに見上げると、視線が合った。
見開かれた血色の瞳。
幾度も思い浮かべた、あの姿と重なる。
「俺を知っているのか?」
そう尋ねた時、村の入り口の方から物々しい気配が伝わって来る。
近隣の村から援軍が到着したようだ。
襲撃者ではなさそうなのに、青年は慌てた様子だ。
彼らと鉢合せては、不都合でもあったのだろうか。



彼と入れかわるようにやって来たのは、デーヴァの神将だった。
天に選ばれた民と自称するデーヴァの。
村人に生き残りは無かったようだ。
唯一人残された己へと向けられた疑惑の眼差し。
「生存者はこっち?」
現れたのは、金髪の麗人。
「え、嘘  ちょっと、シュラトちゃんじゃない! どうしてこんなトコに居るの?」
肩を掴まれ、思いっきり揺さぶられた。
思いがけぬ反応。
「それは俺の名前なのか?」
問いかけると、翡翠色の瞳が痛そうな色を浮かべた。
青年は、迦楼羅王と名乗った。
他の神将には意味不明な音にしか聞こえない言葉も、この青年にだけは通じているらしい。
「シュラトちゃんが目を覚ました所は、『虚空離宮』と呼ばれているわ。あんたが……修羅王が封じられたのは、異空間を約百年周期で巡る古い神殿だった所よ。」
人々に忘れ去られ、打ち捨てられた創造神の神殿。
「何があったと、訊いていいか?」
神将が封じられるなんて、そうそうあることではない。
「本当に、記憶がないのね。それも仕方ないか。あのとき、ほとんど正気じゃなかったし……でなきゃ、あんなことできないもの。」
自らの心臓を貫き、融合していた魂を切り離す。
一歩間違えれば……彼が普通の人だったら、死は確実だった。
「血溜まりに倒れてたあんたを見つけたとき、こっちも心臓が止まるかと思ったわよ。」
発見が早く一命を取りとめたものの、それ以後自傷騒ぎが度々あった。
夕焼けが血の色に染まった日であるとか。
質が悪いことに、本人は無意識なのだ。
それで、あの場所に封印されることになったのだろう。
夕焼けの来ない、閉ざされた空間に。
時間が解決してくれることを祈って。
「あんたは人間界育ちだったから、ある意味限界だったのかもしれないわね。」
あれは、百歳を過ぎた位だったろうか。
人間としての意識では、天空人の永い命を生き続けるなんてことはできない。
まして、半身とも言える者を失ってだなんて。
魂が融合していては、転生を望むこともできない。
「でも、あんたのしたことは無駄ではなかった。あたしたちと入れ代わりに行ってしまった奴。あれ、夜叉王よ。」
しかも、間違い無くシュラトの対の魂を持つ者だった。
「あれから、もう八千年位になるの。」
転生して来るには、充分な時間が過ぎたのだ。
「あいつもね、いきなり書き置き残して、仕事放棄して何してたと思う? 修羅王の護子がここに祀られてるって聞いたらしいの。」
しかも、それを奪おうという輩がいるっていうから後先考えずに飛び出したらしい。
それを聞いて、思わず笑ってしまった。
しっかりしているようで、何処か抜けている。
それが、あまりにも『彼』らしくて。
笑っているうちに、失ったと思っていた記憶が、色を取り戻してきた。



(END)





>Post Script
>初出は2001/8/19発行の『青の記憶』
>色を題材にした話を書きたくて作りました。

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