何も彼もを吸い取るかのような静けさに心が騒ぎ、
もう一度眠りにつくもままならず、毛布を纏い身を起こす。
冷えきった両手に吹きかけた吐息は、すぐさま白く凍りつく。
辺りを支配する静寂。
多くの生き物が、生命活動を止め始めている。
生きようとする力の弱い者たちの、消え行く命の火の揺らぎ。
消滅していく気配。
それらを静かに受け止め、少年は唯一『外』の見える窓辺へゆっくりと歩み寄る。
伸びるにまかせていた量の多い漆黒の髪を、鬱陶しげにかきあげながら。
周囲を押し包むこの静寂には覚えがあった。
遙か昔、『ここ』ではない所でのことだ。
思えば、あそこはささやかな楽園だった。
二度と帰らない時間。
戻れない所……
かつてこの世界を隈無く巡っていた風も、死に絶えたかのように凪いで久しい。
大気が淀み、地に禍々しい気が充満する頃、天より無垢で冷たい白い物が舞い降りてきて、
今では世界中を覆い尽くしている。
何もかも包み込み、すべてを安らかな内に滅ぼす為に。
ある者は絶望の内に氷に閉ざされて覚めることのない眠りに就き、
また、ある者は儚い一縷の希望に縋りついてひたすらに生を追い続ける。
「このまま、世界は滅ぶのだろうか。」
独り言ち、少年は口許に皮肉そうな笑みを浮かべる。
己の両の掌を見ながら。
「それも良いかもしれない。」
両手が見えない紅に染まっているのを目にし、ギュッと握りしめる。
そして、どことなく寂しげな瞳をして、終わりの見えない闇を見据えた。
どのくらいそうしていたのだろうか。
少年の黒曜石の瞳が訝しげに細められる。
闇の中に異質な気配を感じたのだ。
異質?
否、異質などではない。
少年に近しい者の気配だ。
「まさか……八部衆か?」
その時、少年の頬を一陣の風が吹き過ぎた。
「!」
触れる物を切り裂くような、凍てついた気。
思わず身震いし、両手で躯を抱き締める。
心の奥底から熱いものが込み上げてくる。
血が滾り、心の臓が早鐘を打つ。
忘れることのできない、この感覚。
少年の血を騒がせる者は一人しかいない。
八部衆の内で風を使う者も一人しかいない。
「夜叉王か……」
考え込むように俯き、洩らした言葉の内から溢れる懐かしさ。
もう長いこと、その名を口にしていなかった。
少年と彼女の前でその名を呼ぶことが、禁忌とされていたために。
『彼』を目の前で失い、この廃墟に引き籠もってから幾千年が過ぎただろう。
片時も忘れたことはなかった。
再び彼に巡り逢うために、今まで命永らえてきたのだ。
纏っていた毛布を寝台に投げ捨て、少年は廃墟の表へと向かう。
夜叉王を迎えるために。
彼は一人だった。
八部衆に名を連ねる者であったが、随員はいなかった。
人々が認めたがらないとはいえ、現在はアタルヴァ期なのだ。
生きて行くだけで精一杯。
余分な人員を割くわけにはいかない。
いくら、唯一絶対の神である調和神の勅命であっても。
それに、ただの調査の任である。
その程度、一般神将に任せても構わないのではなかろうかとも思ったのだが、
彼女の目を見てしまったら断れなかったのだ。
慈愛に満ちた笑みを口許に浮かべ、悲しげな、それでいて彼に憎しみに似た強い感情を抱いている瞳。
(調和神は何かを隠している……)
そうと分かりながら、尋ねることはできなかった。
――北方の辺境にある創造神の神殿に赴き、その守人に会え。
それがこの度の任務であった。
――会って、できればその守人を天空殿に連れ帰れ。
彼とて八部衆の一人。
神殿の守人の一人や二人、力尽くで連れ帰るくらい容易い。
その考えが甘かったことは、間もなく身をもって思い知らされることになる。
かつて創造神の神殿であったという廃墟を目前にし、彼は途方に暮れていた。
ほとんど、人の住んでいる気配は無い。
にもかかわらず、結界だけは生きていた。
一介の神将が破るには、強力すぎる透明な壁。
姿を見せなくなって久しいという創造神が張ったものなのだろうか。
(このままここにいれば、いずれ凍えてしまう。)
覚悟を決めて光流を高め出した彼の視界を、何かが横切る。
落ちた先に目をやると、それは独鈷杵だった。
それが飛来したと思われる所を凝視する。
先刻から急に巻き起こり出した吹雪に阻まれてはっきりとは見えないが、人影らしきものが映る。
「誰だ!」
吹雪く風の哭き声に負けまいと、張り上げた誰何に応えは無い。
何かの違和感にもう一度目の前を見直すと、完璧を誇っていた結界が綻んでいた。
先の独鈷杵の打ち込まれた部分だ。
自力で勝ち得たものではないのであまり良い気分ではなかったが、他に良い方法もない。
仕方なく、その綻びから結界内に侵入する。
途端に吹雪がピタリと止んだ。
踏み入った瞬間受けた清冽さに、彼はここが神聖な聖域であることを思い知らされる。
こんな清浄過ぎる所に、人間が住み続けられるのだろうか。
ならば、先刻の人影は何者なのだろうか。
考えていても、何事も始まらない。
彼は神殿であったらしい中央の建物に向かう。
かつては荘厳であったと思しき建物の前に、少年が一人立っていた。
独鈷杵を寄越した者の姿形と似通っている。
背を覆う艶やかな黒髪、やや大きめの黒い瞳。
記録にないほどの極寒の中、右肩を晒す短衣のみ身に纏っている。
修行者なのだろうか。
両手で訓練用と思われる杖を玩んでいる。
この子供が『守人』なのか。
いくらなんでも、幼な過ぎるのではないだろうか。
そう思ってもう一度よく見ると、少年が見かけ通りの者ではないのだと分かる。
少なくとも、彼より遙かに年上だ。
纏う気が、調和神と酷似している。
在位九〇〇〇年を越えるという彼女と。
永い年月を経てきた者だけが持つ、独特の雰囲気。
光流が抑えられている為、相手の強さは、はっきり掴めない。
不用意に手は出せない。
やがて、無言のまま見合っているのに我慢できなくなったらしい。
少年が口火を切った。
「デーヴァ神軍八部衆が一人と見受ける。このような辺境にいかなる御用かな。」
相手が八部衆と知りながら、挑発するように不遜な言葉。
手にした杖を探る手。
本当はすぐにも一撃打ち込みたかったと見える。
「お前がここの守人か?」
相手の方が年上だと分かっていて、彼は物言いを改めなかった。
こういう種類の人間は、ちょっとした弾みにすぐ攻撃に移るものだ。
その方が早く片が付く。
しかし、少年は満足そうに微かな笑みを浮かべただけだ。
かえって、彼の不遜さが気に入ったらしい。
(変な奴だ。)
そう思いながら、彼は少年に対峙した。
隙は……無い。
「守人なんぞになった覚えはないが、ここに住んでいるのは俺一人だ。」
意外とおとなしい答えが返る。
外見にそぐわない静かさで。
そして、尋ね返す。
「……で、調和神様の御用向きとやらは?」
少年の反応に、彼は何か釈然としないものを感じていた。
何故なのだろう。
「お前を天空殿に招きたいと。」
疑問を押し隠し、調和神の言葉を端的に伝える。
「それで、八部衆を寄越したってわけか。」
しかも、わざわざ夜叉王を選んで。
他の神将だったなら、会う気も起きず結界内にすら入れなかっただろう。
視線を戻すと、彼が少年の様子を窺っていた。
当然出向くだろうという目をしている彼に、少年が素っ気なく告げる。
「誰が来ようと、返事は変わらない。出向くつもりはないと調和神に伝えてくれ。」
そして、背を向けた。
思わず、彼は神殿内に入ろうとした少年の腕をきつく掴む。
その意外な力強さに、少年は引き止められる。
容易には振りほどけない。
体格では、彼の方が少年より優っていたから。
「離せ。」
すげなく拒絶する少年の躰を己の方へと引き寄せる。
「離さない。天空殿に行くと約束するまでは。」
直に触れてみると意外に細い手首。
引き締まった少年の腕は、長年の鍛練の賜物だろう。
間近に見上げてくる黒曜石の瞳を見据えながら、言い淀むことなくきっぱりと言い切る。
「力尽くにでも連れて行く。」
八部衆の一人としての自信から出た言葉だ。
それを聞き、少年の瞳が生き生きと輝く。
「そう来るか。望むところだ。ここしばらく退屈してたからな。お前が勝てば何処へなりと行ってやろう。」
来いよと言って掴み返した手を引っ張り、彼を神殿の奥に連れ込む。
少年は、反射的に身を引こうとした彼に笑いかけた。
「やるんなら、ここの裏手にもう少しましな場所があるからさ。お前も、そんな動きにくそうな恰好でやりあいたかねぇだろ?」
少年は彼の防寒装備のことを言っているようだ。
確かに、少年の無防備ともとれる軽装に比べたら、さぞ動きにくいことだろう。
彼は引っ張られるにまかせながら、とりとめのないことを考える。
辺りに、少年以外の気配は無い。
誰かが生活しているという様子が皆無なのだ。
満ちているのは、雪の降りしきる中浴びる清水のように透き通った気。
一点の濁りも許さない聖域。
こんな寒々とした所に、少年は住んでいるのだろうか。
たった一人で。
孤独と戦いながら。
少年が彼を導いた先は、中庭のような所だった。
そこには、天空殿にあるような修練場が整えられている。
ここだけは、生きている空間だった。
誰かがいつも使っている場所だ。
血の通う人の匂いがする。
「さっさと用意しろよ。……それとも、臆したか?」
背後から耳元に囁かれる言葉。
挑発と分かっていて、睨み返してしまう。
彼の視線の先で、少年の瞳に意外そうな色が浮かんだ。
「へぇ、お前がそんな拗ねた表情するなんてな。」
まるで、旧知の者に話し掛けるかのようだった。
(初対面だというのに……)
彼の心の内でも、何かが引っかかる。
この少年は、まるで彼のことを知っているかのような言動をする。
(嫌な予感がする)
防寒用に着重ねた外套などを脱ぎながら、彼は込み上げて来る不安を押し殺していた。
袖無しの上衣を残し、ゆるんだ髪を結び直す。
背にかかる銀髪。
切れ長の紅の瞳で少年に挑む。
打ちかかったのは、ほぼ同時だった。
武器なんて不粋な物は使わない。
素手と素手。
最初に交わした一撃で、彼は少年の技量が唯人の域を超えているのを感じ取る。
気負わない滑らかな身のこなし。
光流の高まり。
どれを取っても、非の打ち所がない。
(天空界に、まだこんな奴がいたとは……)
天空殿で、彼と互角に戦える者は数少ない。
第一、生きる気力のある者など、数えられる程度しか居ない。
この少年は、かつて天空界最強の神将集団と呼ばれた十二羅帝と並ぶのではなかろうか。
「もう終わりか?」
少年が退屈そうに彼の出方を待っていた。
しかし、その瞳は言葉を裏切っている。
彼に期待している目。
戦いたいと。
本気でかかって来いと。
応えるために、彼は改めて向き直る。
再度の打ち込み。
不思議だった。
少年は、彼の動きを知悉している。
彼が仕掛ければ引き、即座に一瞬の隙を突いて来る。
少年だけではない。
彼にも少年の動きが分かるのだ。
頭で考えるのではない。
この体が覚えているのだ。
これは、いつの記憶なのだろうか。
今世である筈がない。
初めて会うのだから。
(まさか、前世なのか?)
八部衆のある者は、同じ魂が転生してくるのだという。
彼も、その一人だ。
彼――夜叉王は、先の大戦以来九〇〇〇年ぶりの転生だという。
アスラ神軍の先鋒として、デーヴァと戦ったという先代夜叉王。
その彼と死闘を繰り広げたのは、修羅王だった。
創造神の後継者だという修羅王。
大戦以後、何処かに身を隠したと言い伝えられている。
彼は確信した。
(こいつが修羅王だ。)
間違いない。
前世の夜叉王と戦ったという修羅王自身だ。
生半可な組手などで勝てる相手ではない。
我知らず、必殺技の真言を唱えていた。
高まる光流。
月光に似た色のそれを手加減無しに叩きつける。
一方、少年は両手を目の前で組み、彼の技を受け止めた。
荒れ狂う風が天を突き、あの強固な結界をも破る。
光流を出し尽くし膝を付いた彼の目の前で、少年は元の位置に立っていた。
結界の綻びから、白いものが舞い降りてくる。
二人の間に。
天を滅ぼす無垢な結晶が。
後から後から降ってくる。
何もかもを真っ白に埋め尽くすように。
「修行不足だな、夜叉王。」
少年の方から沈黙を破った。
やはり、最初から彼が何者か分かっていたのだろう。
「その程度じゃ、俺に勝つことはできない。」
九〇〇〇年の差は埋め難い。
少年が強すぎるのだと分かっていても、悔しかった。
腕尽くで連れ帰るどころではない。
このままでは、並び立つことすらできない。
彼は俯いて拳を握りしめていた。
そのため、少年の表情の変化に気付かない。
降りしきる雪。
その光景が、少年に懐かしい情景を思い起こさせる。
ひらひらと舞い落ちる様は、あの出逢いのときのようだ。
桜の樹の下にいた……
流れる銀糸のような髪。
失いたくなかった唯一の人。
また失うなど、考えたくもない。
「……行ってやるよ、天空殿。」
少年の呟きに、彼が顔を上げる。
怒りに身を震わせて。
「同情などいらない!」
どうやら、少年の言い方がまずかったらしい。
毎度のことながら、大切なことを伝え忘れてしまうようだ。
少年はしゃがみこみ、彼と同じ目の高さで語りかける。
「同情なんかじゃねぇよ。お前の勝ちだ。」
その声音に何か感じたのか。
彼はもの問いたげな視線を少年に向けた。
「修羅王?」
怪訝そうに見つめ返してくる彼に、少年は両手を伸べる。
「お前に記憶はないだろうが……」
少年より広い彼の背に腕を回し、
「二度と俺を置いて行くな。もう、独りでは……」
その先を続けられず、胸に顔を埋める。
背中に回された少年の手に力が籠もった。
離すまいと。
この温もりを二度と失くしたくないと。
夜叉王は宥めるように少年の体を抱き込みながら、天を振り仰ぐ。
生まれた時からずっと降っている雪。
見慣れたはずの白いものが、初めて彼の記憶を揺さぶる。
(似ている……)
夢に見た光景に。
あれは確か、淡い紅色の花びら。
次から次へと、散りゆく花。
「凱……」
答える名を、目の前の夜叉王が知る筈はないのに。
呼ばずにはいられなかった。
その一言が、彼の記憶を根元から揺さぶる。
「――秋亜……人」
ようやく逢えた。
彼を待っていた。
彼だけを……
>Post Script
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> 文字物が無いと寂しいので、在庫のなくなってしまった読み切りを引っぱり出して来ました。
> TV編の一万年後の設定という妄想……
> 私の『妄想』は、世間というより同人界のいわゆる『妄想』から、ちょっとズレているらしいです。
>
>初出: 1999.1.22 夢・世界27回配本
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