『朱い空』








村を滅ぼされ、すべてを失った
あの日を思い出させる朱い空
燃えるような夕焼けが嫌いだった




時の流れが容赦なく記憶を薄れさせる。
指の間から砂が零れ落ちてゆくように。
当たり前の日常を失った日、出会った少し年上の少年の面影。
残っているのは、彼のものと思われる名前と、言い様のない高揚感。
あまりにも多くのことがあり過ぎて、彼の顔もはっきりとは覚えていない。
印象に残っているのは黒と紅の二つの色彩。
髪が黒く、紅い服に映えていたのだと思う。
それと、黒く透き通った闇色の瞳。
伸ばされた手の温もりと、果たされないままの約束。
次に会ったときは、その名で呼んでほしい。
どんなに長い時間がかかっても、きっと逢える。
そう言ったあの人は、とうにこの世を去っているに違いない。
人がどんなに長生きしても、一〇〇年そこそこ。
そろそろ三〇〇年が経とうとしている今、彼が生きていたという痕跡を辿るのも困難だ。
もう、叶う筈のない約束。
それでも、何も約束がないよりは良い。
ただ、逃げ回って生きるのは空しいだけだと身にしみて思う。
目標を目指す旅ならば、どんなにましか。
敵の目的を達成させない為の逃避行。
逃げて、逃げて、逃げて……
敵の影に怯え続ける。
そんな日々に終わりを告げる日を夢見ながら。
交わした約束故に、死を選ぶこともできない。
それに、次の宿主を決めるまで、紋章はテッドを死なせないのではないかと思う。
今まで、何度か大怪我をして死にかけたことがあったが、その度に紋章が力を発揮してきた。
要するに、テッド一人を生かす為に周囲の魂を喰ったのである。
生と死を司る紋章とはよく言ったものだ。
右手に在るものの性質を考えたら、死を選ぶのは最後の手段と考えるべきだ。
失敗すれば、徒に周囲に死をまき散らすことになりかねないからだ。

それにしても、不思議でならない。
どういう訳か、覚えている彼の名は二つ在る。
どちらかが姓で、もう一方が名なのか。
それとも、両方とも名なのか。
姓、あるいは複数の名を持つということは、良家の出身だったのかもしれない。
名の通った家柄なら、家系図が残されているものだ。
そう思って調べて見たこともあったが、何一つ手がかりを得られなかった。
髪の色やうろ覚えの服装から、クリスタルバレーより南方の生まれだと思われるのだが。
ハルモニア本国の一級市民は金髪だから、周辺で南ということはデュナンかトランのあたりか。
まず探したのは、デュナンの辺りだ。
かつてデュナン君主国があった辺りは、昔から様々な種族が狭い地域に住んでいて諍いが絶えない。
次々と騒乱が起き、都市国家が乱立している。
時が経てば、都市ごと衰退してしまう。
そうなれば、様々な記録や資料はすべて灰になるだけだ。
紛争が絶えない中、戦火をくぐって各都市を調べて回った。
再会を諦めてはいても、期待せずにはいられないらしい。
少し記憶を刺激する資料はあったが、ピンとは来なかった。
トラン湖以南の地域や、海の向こうの群島諸国にも足を伸ばしてみた。
だが、有力な手がかりを掴むには至らなかった。
それどころか、行く先々で騒乱が起きる。
紋章が飢えを感じている時期は要注意だ。
ソウルイーター――御魂喰らいの紋章。
これを受け継いだ頃、テッドはろくに己の宿した紋章について知らなくて苦労したものだ。
知らされていなかったのは、まだ成人に達していなかった為だろう。
その呪われた習性には、時とともに気付かされた。
右手が疼くのは、紋章が飢えを思えているとき。
力がある紋章は人の欲望を呼び起こし、争いの火種を撒き散らすのだ。
己の周囲が死に絶えると、右手が満ち足りたようになりを潜める。
同じことを繰り返し、繰り返し、どれだけの時が流れたのか。
幸か不幸か、真の紋章を宿したこの身に、時間だけは有り余っていた。

他にも各地を回ったが、全くお手上げ状態だ。
それとも、覚え間違いだったのか。
「これでも、記憶力には自信あるんだけどな。」
でなければ、今まで逃げ続けて来れなかった。
あの女や、ハルモニアのような真の紋章を狙う輩から。
何度、危ない橋を渡っただろう。
両手の指では事足りない。

今だって、少し息抜きのつもりで足を留めていた村が滅ぼされてしまった。
戦況が急変したのは知っているつもりだった。
ここから少し先に、赤月帝国領のカレッカという村ある。
いや、あった。
そこが全滅してから、流れが変わったのだ。
都市同盟と赤月帝国の国境紛争は珍しくない。
赤月帝国が弱体化し、このところ都市同盟が優勢だったのですっかり油断していた。
不利になったからといって、都市同盟がこれ程まで早く戦線が後退するとまでは思っていなかった。
きな臭い噂も流れてくるカレッカの様子を見に出て、帰って来たらこの通り。
都市同盟の敗残兵と、便乗した盗賊に略奪された後だった。
宿代わりにお邪魔していた納屋はすっかり焼け落ちていた。
残していた荷は大したものじゃないから諦めるとして、これからどうするか。
とりあえず、このままここに居ても仕方ないから、近隣の村を目指すしかない。
焼け残った物資の中から、使えそうな物を選び出す。
「恨むなよ。」
金も食料も、死者にはなくとも困らないが、生きている者には必要だ。
別に、余分に多くとるわけではない。
次の村までの路銀を少し借りるだけだ。
この行為に罪悪感をおぼえていたのはいつまでだったろうか。

村の入り口だった方が騒がしい。
盗賊が戻ってきたのか。
物陰に隠れてみれば、揃いの服装。
どちらかの国の軍と思われた。
大きな獣を引き連れている。
確か、あれはガルフォースといったか。
この辺りでガルフォースのいる軍といえば、赤月帝国しかない。
てっきり、敗残兵を追って来たのだと思っていた。
制服の間に、毛色の異なる装束が数人いる。
その中で黒髪の偉丈夫が指示を与えているのが見えた。
まだ若そうな側近が兵士達の間を走り抜ける。
すると、生存者の捜索と死者の埋葬を始めたのだ。
略奪に走る兵もいない。
赤月帝国軍は腐敗が激しいと聞いていたので、その行為には正直言って驚かされた。

兵たちの様子に気を取られていたらしい。
男が傍らに立ったのに気付かずにいた。
「君はここの村の者かね。」
頭上から降って来る声。
慌てて振り仰げば、先刻の偉丈夫が立っていた。
年は三、四十代位か。
歴戦をくぐり抜けた強者の風格があった。
「……泊まってただけだ。出かけて帰って来たらこの様でね。」
気後れしてはならない。
そんな気がして睨むように挑んだ。
「戦災孤児かね。」
そう言われれば、そうだろう。
村を焼け出されたのは事実だ。
もう、孤児という年齢はとっくに過ぎていたが、あながち間違いではない。
三〇〇年前と言っても信じてくれないだろうし。
「生まれた村は焼かれたんでね。だけど、孤児じゃないぜ。」
頭を撫でようと伸ばされた手を払う。
「撫でるな。もう、子供じゃねぇ。」
行き場を失ったてを見つめながら、男が言う。
「いや、失礼。君をみていたら、家に置いてきた息子を思い出してね。あれは年の割に小柄なので、あと数年もしたら君くらいになるのかなと。ところで、次にどこか行くあてはあるかね。」
余計な親切はかえって迷惑だ。
「あんたには関係ないだろ。」
「君さえ良かったら、息子の相手をしてもらえないかと思ったのだが。」
そうきたか。
「……子供は苦手だ。どこの誰だか知らけどさ、あの兵隊さん達はあんたの部下なんだろ? お偉いさんとこの後継ぎの相手なんて柄じゃねぇよ。」
生命力の弱い者ほど、右手は死に至らしめやすい。
それに、何処かに居着くつもりもない。
成長しない身体のことは、すぐに不審に思われるだろう。
「まあ、遊び相手というか、一人前だという君を見込んで、あれの護衛も頼みたいのだよ。継承戦争の頃、一度誘拐されていてな。それ以来、一人では街の外に出ることすらできん。」
「……過保護過ぎなんじゃないか?」
それも無いわけではないがと、男が口を開く。
「頑として、私には理由を言おうとしなかった。それで、母代わりの付き人に訊かせたら、『己の未熟さで迷惑をかけるわけにはいかない』などと言ったらしい。」
本当に、それは子供の言葉なのか。
「迷惑って、あんたなら身代金くらい訳なかったんじゃねぇの?」
階級は分からないが、見たところこの男はかなり高位に就いていると思われた。
金なら、有り余っているに違い無い。
「金なら良かったんだがね。犯人の要求は軍の武装解除だったのだよ。陛下からお預かりした軍を私事で損なうわけにはゆかなかったので、私は息子の安全ではなく軍を選んだ。」
「おい。」
どこかで耳にしたことがあった。
継承戦争終盤で流れた噂だ。
「幸い、付き人が命懸けであれを救い出してくれて、事無きを得たのだよ。事の顛末を聞かせ、私が息子ではなく軍を選んだことを伝えて息子に謝ろうとしたら、逆に『申し我ございませんでした』と謝罪されたのには驚いたものだった。」
と言うと、溜息をついた。
それがあまりにも深くて、聞いているテッドまで引き込まれそうになった程だ。
「当時、まだ五歳にもなっていなかったというのに。いや、四歳だったか? ともかく、親としては、もう少し年齢相応になってもらいたいのだよ。周囲に大人しかいないから、物言いも考え方もそうなってしまったのだと反省している。そこで、君みたいに少しでも年が近い者に、傍にいてやってもらいたいと考えているのだが。」
「それなら、こんな身元の分からない奴を雇うこたないだろ。」
そもそも、テッドでは実年齢が離れ過ぎている。
期待には添えない。
「君が良いと思ったのだ。妻には先立たれたが、うちは大所帯だぞ。部下も何人が一緒に住んでいるからな。それで、君にもあれの家族になってもらいたいのだ。」
目の前の男は、良い人物だとは思う。
「……あんた、妙な奴って言われねぇか?」
「それは失礼した。それで、どうかね。」
妙に押しが強いが、居心地が悪そうという風ではない。
「合いそうになかったら、即出て行ってやるけどいいか?」
長居するつもりはないし、出来ないのは目に見えている。
それでも、少しの間ならと、話を受けてみることにした。
「よろしく頼むよ。」
伸ばされた手は右手だった。
どうしたものかと躊躇っていると、遠くから男探しているらしい部下の声が聞こえて来る。
「テオ様!」
「ここだ。」
そう言いながら、男は差し出していた右手を部下に向かって振る。
「まさか、テオ・マクドール? 百戦百勝将軍の?」
テッドが口にしたのは、赤月帝国皇帝の信頼が厚い将軍の名だった。
「まったく、いつ耳にしても大げさな呼び名だと思うね。あと、先程君が拝借していた物は村に返しておきなさい。」
妙なところで気が付く。
「……変なおっさんだな、あんた。」
そんな不遜な物言いも、軽く笑い飛ばされた。
本当に、懐の大きい人物だと思う。

その日、軍の宿営地の天幕に連れて来られた。
あまり好奇の目は向けられない。
近くにいたまだ若い男に訊ねたら、よくある事なのだという。
気に入った人物がいると、拾って来てしまう癖があるらしい。
「どうして俺なんかって、あんたたちも思わねぇか?」
頷いた黒髪を制して、グレンシールと名乗った青年が口を開く。
「テオ様の人を見る目は確かだ。ご子息の付き人の話は聞いたかい?」
「母代わりって奴?」
先刻、将軍が嬉々として話した中にあったなと思い出す。
「グレミオというのだが、君と同じように戦災孤児でね。戦場になった村から拾われてきたそうだ。」
聞き間違いだろうか。
「彼女じゃなくて?」
「そう、彼なんだよ。色々な意味で、彼みたいな者はなかなかいないと思うね。」
母代わりなら、女性なのではないかと訊ねたら、あっさりと答えられた。
黒髪の、アレンと名乗った方がしみじみと呟く。
「アルフ様のこととなったら、本当に命懸けだ。」
懐かしい名。
こんなところで、探している名を耳にするとは思わなかった。
「アルフ様が誘拐されたときも、敵地に単身乗り込んで救出したというし。」
「その付き人って、ごつい大男?」
「いや、どちらかというと優しい感じの青年だな。荒事向きではない。」
家事には精を出しているが、武術を嗜むと聞いたことはないらしい。
それで一人で救い出しに行こうだなんて、無謀過ぎるだろう。
「……ただし、包丁を握っている彼には逆らわない方がいい。」
「彼の剣は誰一人として斬れないが、包丁さばきならプロ級だ。」
淡々と答えるグレンシールの相棒が、身をもって経験したそうだ。

そんな話に興じていたら、いつの間にか夜を迎えていた。
夕暮れ刻を気にしないで過ごしたのは、久し振りのことだった。



『朱い空 了』






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テッドと坊ちゃんの視点から交互に幻水1を書こうと思った話の出だしです。
ちっとも書きたい部分までなかなかゆかず、とりあえずできた部分だけと無料配付した最初の章でした。
結局、最後まで辿り着くのに一年が経ってしまいました(汗)